「《公》は表現活動支えよ」 共同通信に論説掲載
共同通信「指標」欄に提供した論説 「《公》は表現活動支えよ」 が、47ニュースに掲載されました。
東京・大阪・名古屋で開く予定となっていた「表現の不自由展」が悪質な妨害を受け、開催が困難になっている。それぞれ、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の中の企画展「表現の不自由展・その後」を各地の市民が再構成した内容だという。
東京では、会場となっていた民間ギャラリーが開催前に妨害を受け、新たな会場探しも難航している。大阪と名古屋は、自治体が提供する市民スペースで展示が予定されている(いた)が、施設職員に対して罵声や爆竹の入った郵便物などによる悪質な妨害があったため、大阪は使用許可が取り消され、名古屋では会場が休館となった。
大阪はその後、地裁が施設の使用を認め、施設側の抗告も大阪高裁、最高裁が退けて不自由展の開催にこぎ着けたが、名古屋は再開できないまま、開催期間が終了した。
「表現の自由」には、たしかに批判の自由が含まれる。しかし批判の自由は、批判する側とされる側がひとしく表現の土俵に乗れることが前提で、一方の表現をふさいでしまう妨害行為は「表現の自由」によって擁護できない。
権利の正当な行使を守り、権利侵害となる違法行為は許さない。それが法治国家における行政である。文化行政も警察行政も、こうした大きな仕事観に立って動かなくてはならない。この点では、会場運営に関する判断と同時に、警察の対応にも疑問がある。
たとえば札幌では、選挙演説に向かって「やめろ」と叫んだ市民を、警察が身体を抱えて排除している。札幌地裁はこれを警察力の行使として「許容される」と判断した(昨年11月27日決定)。
警察法の2条は、警察の活動は「不偏不党かつ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利および自由の干渉にわたるなどその権限を乱用することがあってはならない」としている。
警察の実力行使は《最後の手段》とすべきではあるが、今、警察が干渉せずに見守るべき場面と制止に動くべき場面とが逆転して、この原則に反することになっていないだろうか。
この種の妨害は、放っておけば社会全体にとって深刻なダメージとなる。みんなが表現することを恐れる萎縮社会になっていくからだ。その流れを止めて「表現の自由」を支える空気を作れるか。今、メディアが次々と出している報道や社説は、「支える空気」をつくるために必要で、大切なことだ。同時に警察の姿勢も、自治体首長の言葉も、市民社会の成り行きに大きな影響を与える。
こうした中で大阪地裁が出した9日の決定は、傾聴すべき内容である。もしも「正当な理由」なしに公の会場が閉鎖されたら、主催者は回復できない「重大な損害」を受ける。警察によっても抑えられないような事態が起きているならば「正当な理由」があると言えるが、この件でそのような事情は認められないので、会場使用を不可とすべきではないとの判断だ。
この国の《公》は、市民の表現活動を支えるよりもふさぐほうにばかり熱心なのか、という筆者の疑問が、「とんだ杞憂(きゆう)だった」と笑われる方向へと収束してくれることを切望する。
(2021年7月14日配信、同20日差し替え)