論文「裁判官と「表現の自由」」が『現代思想』8月号に掲載
裁判官の世界は、学生さんには遠い世界に思われるかもしれません。しかし、たとえば美術・芸術・デザイン・文芸が裁判で問題となる例はたくさんあり、それらの裁判では、裁判官がこの領域に十分な理解を持っているかどうかが決め手になる場合もあります。
その中で、裁判官自身の「表現の自由」はどうなっているのでしょうか。
じつは 、かなり厳しい制約があります。法律上の制約もありますが、法律以上に厳しい事実上の制約もかなりあるようです。それは憲法に照らしてみたとき、本当に必要な制約なのだろうか。国民にとっては、裁判官の神聖なイメージを守ることよりも、知る権利の観点から、裁判官にもっと語ってもらうことのほうが大切なのではないか。そんな疑問を、論文にまとめました。
論文冒頭「はじめに」より抜粋
裁判官ほど、膨大な言葉を扱いながら、自分の言葉を語らない(語れない)人々もいないのではないか。このことを可視化させてくれたのが、現在進行中の岡口基一判事の弾劾裁判である。翻って裁判官の自己表現や良心的表現が関心を呼んだ例を見てみると、「原発を止めた裁判官」として有名な井戸謙一元裁判官や樋口英明者元裁判官、冤罪の疑いが濃いとされる袴田事件の一審で被告を「有罪」とする判決文を書きながら退官後に袴田氏の無罪を訴える手記を公表した熊本典道元裁判官、シンポジウムへの出席が「積極的な政治運動」とされた寺西和史元裁判官、そして死後に手記を残した団藤重光元裁判官の例がある( )。これらを見ると、裁判官の表現の不自由問題は深刻である。
裁判官の「表現の自由」には、(A)個人としての「表現の自由」や「思想・良心の自由」に職務上の制約をかけることがどこまで許されるか、という問題と、(B)裁判官が自己の職務上の「良心」に照らして社会に情報提供をしたり自分の見解を表明したりすることについて、どこまで職務上の禁止や制約をかけることが許されるか、という問題とがある。両者の境界は完全に線引きできるものではなく、両方の要素を含むような事例が多いのではないか。とは思うものの、まずは問題場面を上記のような理念型に分けることにする。…