日本科学者会議シンポジウムで特別報告

2021 1127 JSAシンポ「コロナと憲法53条」 告知チラシ

日本科学者会議 東京科学シンポジウム 特別講演「コロナと憲法53条・臨時国会の意味を問い直す」

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シンポジウム事前配布冊子掲載の予稿

特別講演「コロナと憲法53条・臨時国会の意味を問い直す」志田陽子

1.概要

2021年は、コロナ政策についてこの臨時国会の召集が求められていたにもかかわらず、これが行われなかった。日本国憲法が採っている民主主義は単なる多数決民主主義ではなく熟議民主主義であることを確認し、この議論の場を設定するための規定である憲法53条後段が、事実上、空文化させられてきたことの憲法問題性を問う。

2.問題状況

新型コロナウィルス感染の拡大を防止しつつ、市民生活や経済活動を可能な限り確保するための政策には、市民の生活現場、医療現場、経済活動に制約を受ける事業者の活動現場などからのニーズを把握し、医療・保健関係の専門家の見識や法的限界・社会的影響に関する見識を総合させて政策を決定していく必要がある。そのためには、さまざまなレベルでの熟議が欠かせない。

日本では、専門家委員会は開かれたが、その議事録の公開のあり方には市民の「知る権利」への理解が欠けていた。そして国会での議論は、空疎な一般論に終始し、政府任せにするしかない状態が事実上続いた。

この状況の中で、野党4党は7月16日、新型コロナ対応を巡って「国民の英知を結集させる」ことを訴え、憲法53条に基づく内閣への臨時国会召集要求書を提出。その後も首相との質疑を求めたが、これらは実現しなかった。その後、2021年10月4日に「臨時国会」が召集されたが、これは与党総裁の交代に伴って内閣総理大臣も交代することとなるので、その指名のために召集されたものだった。これは内閣の側から内閣の判断で召集される、憲法53条前段の「臨時国会」であり、召集要求されていた「臨時国会」とは別のものである。

翻って、憲法53条後段の、少数派の国会議員の要求に基づいて召集される臨時国会は、内閣によって、長らく無視され続けてきた。とくに2017年6月に行われた臨時国会召集要求が98日間無視され、その後に開かれた臨時国会では一切の審議が行われないまま冒頭解散が宣言された。このことを憲法違反に問う裁判が、東京・岡山・沖縄から提訴され、現在係争中である。

3.憲法53条が存在することの意味

憲法53条は、前段で、内閣は臨時国会(条文では「臨時会」)を召集「できる」と定めている。この部分は内閣の判断・裁量を認めている部分である。一方、同じ53条の後段では、衆参いずれかの総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は臨時国会を召集「しなければならない」と規定している。

日本の民主主義を単なる多数決民主主義と考えるならば、この規定は無駄な規定となる。議事を行ったところで、政策決定を行う者が誰かはもう決まっているので、少数者の要求に応えて議事を行ったところで、政策決定の内容に変わりはないのだから、時間の無駄ということになるからである。筆者は、日本の為政者による「民主主義」の理解がこのようなものになっていないかという危惧感から、この問題に関心をもっている。

この後段の趣旨は、国会の機能・役割が、《政策を多数決で決定すること》だけではなく、《議会による行政への監督機能を確保すること》、《政府に国民への説明責任を果たさせる場を設定すること》にもある、ということを明らかにしている。こうしたことは、議会多数派(与党幹部)と内閣閣僚を同一人物が兼ねる議院内閣制の下では、多数派の判断に任せていては、実現しにくい。だからこそ、こうした臨時国会を開く必要があると判断し要求する権利を、少数派の議員に付与しているのである。

4.現状

10月に開かれた臨時国会では、新内閣総理大臣による所信表明演説と、衆参本会議での各党代表質問とこれへの応答が行われた。しかしこうした代表質問は、各政党の大まかなスタンスを表明・確認するのがせいぜいで、細かい問題に実質的な議論を及ぼすことは到底できない。これをもって野党の召集要求に応じたと見ることはできない。この臨時国会は憲法53条前段の、内閣側の裁量によって召集開催された臨時国会であって、憲法53条後段に基づいて要求された臨時国会はいまだ応答されていない、と見るべきだろう。この10月の臨時国会が、憲法53条後段に基づいて要求された臨時国会を実質的に併合したものだと言えるためには、予算委員会などを開いて少数派議員の求める本格的な議論を行う必要があった。これが行われずに解散・衆院総選挙が行われるという成り行きは、憲法53条違反をまた繰り返した、と評価せざるをえないのではないか。

5.この問題をめぐる裁判

この問題については、現在、三つの裁判が係争中である。2020年6月、那覇地裁は、内閣の法的義務を認めた上で、内閣がこの要求を拒めば「違憲と評価される余地がある」との判断を示した。しかしこの問題を裁判所が判断することはできないとした。この問題を国会議員が提訴することは、国家賠償法の趣旨から見て無理だという理由である。

しかしこの問題について裁判所が判断をしないとなると、上記に見たとおり、この問題(違憲状態)の解決を議会の多数派や内閣自身に委ねることはできないため、永久に解決不能の状態が続く。さらに、こうした問題は、これを「問題だ」と感じる有権者の意思によって、すなわち選挙による議会の人員入れ替えによって解決すべきだとの見解もあるかもしれないが、その有権者に対して判断材料を提供するための公開議事の場が、国会である。有権者がこの判断材料を得る権利のことを「知る権利」と言うが、それが塞がれている、というのが、この53条問題なのである。

そのように考えると、この問題について裁判所が門戸を閉ざし続けることは、憲法改正手続き(憲法96条)によらずに現行憲法の条文を死文化(実質的に削除)するという、もう一つの憲法違反問題を招来することとなる。

この問題をどう解くべきか。たとえば、国会議員による提訴はできないという、裁判所が暗黙のうちに共有してきた原則は、じつは法的根拠も論理的正当性もあるわけではなく、なんとなく共有されてきたイメージにすぎないことを看破した研究もある。

本報告では、新型コロナ対策を含め、国政の重要課題について《議論と説明責任の場》を設定する国の義務が果たされていないことを確認し、この問題をめぐる憲法理論、さらにこの問題をめぐる裁判はどうあるべきかについて検討する。

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