週刊金曜日に論説掲載
憲法53条は、《多数決主義》とは別の面から民主主義を支えている。国会という場は、結果(表決)だけを目的としているのではなく、国民の「知る権利」に応えるための質疑・討論・調査の場でもある。53条は、そうした《場》を開くための足場として、日本の民主主義を単なる数の民主主義でなく、熟議による民主主義へと下支えする役割を果たしている。この要求を、数に奢(おご)って黙殺することを許さないのが、この条文の眼目である。…
筆者後記
この記事に筆者自身がつけたタイトルは、「憲法53条裁判 那覇地裁判決の意義と課題」です。まったく面白みのないタイトルです。筆者にはコピーライターの才能はありません。
この記事を書いた筆者の意図としては、この裁判で裁判所が違憲判決を出すことは、「議事を開くこと」を求めている憲法の規範内容に基づいて「権利侵害があったことを認める」という手続き的な正義の回復であって、違憲判決を出したとしてもそれは特定の党派・議員を支援したり失職に追い込んだりするような《議論内容》に踏み込むものではないと考えています。その議論内容は、議事を開いた後、裁判所ではなく国会議員と内閣の間で行われるべきことです。裁判所が判決を出すことは、外的な枠組みを回復する(埒をあける)だけのことであって、議会が行うべき議論内容の簒奪(さんだつ)にはならない、だからこそ遠慮なく判決を出すべきケースだ、というのが、この解説原稿の趣旨でした。
論説の見出しに、この時点での政権担当者の名を入れた政治的糾弾色の強いタイトルを掲載紙側の判断で付け加えることは、これまで慣習的にそうした編集のあり方が続いてきたことからすれば、執筆者として異を唱えるべきではないと考えています。そのようなタイトルを付けなければ私の書いた憲法解説など面白くなくて誰も読まない、ということもよく理解できますので、ご配慮に感謝もしています。しかし、掲載紙サイドがつけてくださった特集タイトルや記事見出しタイトルのように、特定の政権や党派や政治家の名を出してしまうと、この裁判の意義がそういう意味づけへと限定され、裁判自体が特定党派に肩入れする目的で行われている「政争の具」という位置づけで見られかねません。筆者自身は憲法53条裁判にそうした意味づけや限定をせず、「議事を開くこと」という憲法53条の当然の内容を解説し、妙な遠慮を見せた那覇地裁判決に「法は法として、まっすぐに行こう」と言いたかったのでした。
憲法53条の「裁判」について解説したこの原稿は、特定党派を支援したり追い落としたりするために書いたものではなく、憲法が定めている議会制民主主義の当然の道理・理路を回復してほしい、そのための司法の役割を回復してほしい、という願いのもとに一研究者として書いたものであることを、この場で自己解説させていただきたいと思います。