研究論文集「毛利透編『講座・立憲主義と憲法学3巻〈人権Ⅱ〉』」に論文掲載

「表現の自由」と排除――言論空間・討議空間における「自由」の条件/志田陽子

毛利透編『講座・立憲主義と憲法学3巻〈人権Ⅱ〉』(信山社)143-176頁に掲載。

◆第5章 「表現の自由」と排除――言論空間・討議空間における「自由」の条件/志田陽子

Ⅰ はじめに
Ⅱ 言論の場と物理的排除
Ⅲ 言論空間と社会的排除
Ⅳ おわりに

(「はじめに」より抜粋)

作品を批判する自由は当然あるが、そのときに批判の対象も同じ土俵にいられることが、「表現の自由」の大前提だ。周囲に恐怖を与え表現者を「出展できない」状態に追い込むことは、批判や抗議という言論の限度を超えた「暴力」であり、法的に認められない。芸術や文芸の役割は、その時代の常識を疑い、人間の本質を問いかけることにある。多数派から見ると不快で、常識に反すると感じるものもあるだろう。だが、作品に違和感を持つ人も含めて議論が起きることは、市民社会を活性化し、強めることにつながる。見たくないものを封じることを繰り返せば、社会の弱体化を招き、社会自身にとっての損失になる。批判は作品を見た上でないと成り立たない。批判の自由のためにも、今の流れを止めることが必要だ(「『政争の具』危機感 混迷の「表現の不自由展」に作家は」朝日新聞デジタル 2021年7月6日公開記事)。

本稿で筆者が述べたいことの要諦は、この一文でほぼ言い尽くされているが、この中には、法学上は論証や定義づけ作業をしなくてはならない事柄が多々含まれている。このうち、もっとも注意しなくてはならない言葉は、「暴力」という言葉だろう。有形力の行使以外の事柄、とくに「表現」について「暴力」という言葉を使い、これを法学上の概念――「違法」ないし「不法」認定の指標――とすることは、不快な表現への規制を簡単に容認するリスクが伴うため、綿密な限界づけを行う必要がある。本稿ではこの指標となりうる概念として、排除exclusionに着目した。…

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