共同通信から「指標」配信

2022 0505 共同通信「指標」

共同通信社の依頼を受け、「指標」欄の憲法記念特集版に、「表現の自由」の大切さをあらためて考える論説を提供しました。5月3日から15日ごろにかけて、北海道新聞、茨城新聞、中國新聞など、多くの新聞に掲載していただきました。

本文

(掲載後、3か月以上経過したので、本文全文(新聞社最終校閲前の本人提出最終原稿)を掲載します。)

2022年の憲法記念日は、日本国憲法の存在意義が問われる試練の中の記念日となった。一部の人は改憲や安全保障問題について「議論を」と言う。議論には自由な言論環境が必要だ。

ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、「表現の自由」について意識する機会が増えた。衝撃的な画像や動画が流れ、そこに施されたモザイクが「表現の自由」の限界を意識させる。同じ出来事をめぐって、ロシアとウクライナの主張が異なり、「フェイクか、真実か」が問われ、またロシアが軍事侵攻後にSNSを遮断し、虚偽情報への刑事罰を定めた法改正を行ったことが、メディアでも大きく取り上げられている。

今の日本や欧米諸国では、このようなあからさまな言論統制よりも、もっとわかりにくい形での誘導が関心事となっている。資金力のある政治団体や企業が、効果的に作りこんだCMを大量に流して世論を誘導するような手法である。憲法改正国民投票のCM規制の議論も、こうした問題に配慮した議論だ。

今、日本では、プーチンのロシアを「悪」と見て非難し、ゼレンスキーのウクライナと連帯する、というムードが圧倒的に優勢である。筆者も、軍事侵攻によって民間人の命を犠牲にすることは、どんな背景事情があるにしても許容されないと思っている。しかし、相手が「悪」で自分が正しい、という構図に立って、相手を安心して指弾するときにこそ、立ち止まってみる必要がある。

たとえば冷戦期のアメリカは、「表現の自由」を手厚く保護し、裁判理論を発展させたことで知られている。しかしここにも、冷戦独特の敵対の心理が働いていたとする分析がある。「我々は共産主義国と違って、表現の自由をこれだけ重んじている」というふうに、自国の道徳的・文化的優位を強調する動機があったというのだ。その一方で、この時期、放送メディアや映画界では激しい共産主義者狩りが起き、その影響下にあった表現者たちは、「表現の自由」とは程遠い状況に置かれていた。

今、私たちは、ロシアの反戦デモ参加者が警察官に拘束される様子に心を痛め、「表現の自由」の大切さをこれまでになく痛感している。それでは翻って、「それに引き換え日本は自由で安心だ」、と言えるだろうか。

日本の報道の自由度は極度に低いことが、2017年に国連の特別報告者によっても指摘されていた。また防衛省は、自衛隊が対処すべき「グレーゾーン事態」の内容として「反戦デモ」を挙げていた。これが自衛隊によって「対処」されるべき「事態」なのだとしたら、この思考は現在のロシアの状況と変わらない。また、安倍晋三氏の選挙演説中に、法的には許容範囲内のヤジ発言をした一般市民が、警察官から身柄を拘束されて排除された事件もある。芸術や歴史研究の分野でも「表現の不自由」問題が次々と起きている。

私たちは、ロシア・ウクライナ問題をきっかけにして、「表現の自由」を映し出す鏡を見ている。次は、外国の他者を非難する姿勢から一歩抜け出て、それは自分たちの社会を映す鏡でもあるのだと気づくこと、その気づきの上に立って「自由」の大切さを問い直すことが必要である。安全保障や憲法改正について「議論」をするのであれば、そこを「はじめの一歩」にしなくてはならない。(了)

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