「反検閲マニュアル」監訳・監修

「検閲マニュアル」表紙スクショ

NPO法人「うぐいすリボン」翻訳・発行による全米反検閲連盟発行の「反検閲マニュアル」翻訳版(PDF版および冊子版)の監修・監訳を務めました。

A Manual for Art Freedom / A Manual for Art Censorship (芸術の自由マニュアル / 芸術の検閲マニュアル)日本語版(2020)

監修・監訳:志田陽子 (憲法学者/武蔵野美術大学教授)
監訳:山口貴士 (日本国弁護士/カリフォルニア州弁護士)
編集:荻野幸太郎/装丁:山田久美子
発行:特定非営利活動法人うぐいすリボン

NPO法人うぐいすリボンのサイトはこちらです。著者のスヴェトラーナ・ミンチェバさんのメッセージ・ビデオも視聴できます。

以下、志田が寄せた巻頭言の抜粋です。

巻頭言 「表現の自由」と「検閲」censorship

「検閲」という言葉が2019年後半、メディアを賑わした。8月初旬、「あいちトリエンナーレ2019」の中の一企画「表現の不自由展・その後」が中止されたことに端を発している。しかしここ数年の出版を見ると、それ以前から「検閲」を問い直す本格的な図書が立て続けに出版されている。「表現の自由」について、社会が疑問や不安を感じていることをよく示している。

日本国憲法21条は、公権力の担い手が一般の表現活動に介入しないように最高度の自制を求めることで、「自由」を保障しようとしている。「検閲の禁止」ルールもその一つである。この「検閲」という言葉の用法が、日本の法学の世界と、それ以外の世界とでは、大きく違っている。

日本国憲法上の「検閲の禁止」は、戦前の日本で行なわれてきた言論弾圧への反省から、絶対的な禁止だと理解されている。そのせいか、日本の最高裁は「検閲」を、「行政権が」「事前に」「思想内容に着目して」行う表現内容の審査だ、というふうに極度に絞り込んでいる。

この絞り方は狭すぎて、実際には役に立たない、という批判があることは確かである。「あいちトリエンナーレ2019」で起きた「表現の不自由展・その後」の中止はまさに「検閲」ではないのか、なぜ日本国憲法21条「表現の自由」の専門家はなかなかこれを「検閲」と言おうとしないのか、という声は、そうしたところから起きている。

この「表現の自由」マニュアルと「検閲」との付き合い方マニュアルは、そうした作家側の言葉としての「検閲」を考察の対象としている。たとえば、日本の憲法論では、新聞や出版社が自ら行う記事の選択は、「編集権」という自発的な行為として把握され、検閲とは呼ばない。美術館が展示する作品を取捨選択するときも同じである。しかし、そこにこそ「表現の自由」を摘み取る「何か」が及んできているのではないか。むしろそこで、文化芸術インフラに関わる者たちや表現者たち自身が、無自覚なまま、検閲を行う側にまわっていないか…。

そうした問題は、日本の法学上の「表現の自由」論が、なかなか手を届かせることができずにきた領域だった。ミンチェバ氏の「マニュアル」は、そうした問題に、表現者の側から洞察を及ぼし、それらとわたり合う智恵を示している。

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